おいおい。どうした急に。
って声が聞こえて来そうなので、説明します。
2017年9月2日。明日で、、、
勤続21年目
に突入します!おめでとう自分ありがとう自分。
節目ということで、ここで一つ自分の過去のお話を。
ちと、長いですので興味のない方はここでサヨナラです。
プロフィールにも書いてありますが、、
僕、途中から母子家庭で育ちました。
それもものすごいタイミングで。
中学3年の高校受験。
その当時僕はといえば、すんごい甘い考えをしていて、将来芸術関係で食っていけねーかなぁなんて思っていて、とりあえず、ここは美大に進学だ!って意気込んでました。
まぁ、その頃だって、夢見すぎているわけでもなく、現実的にもう一つの選択肢、というか憧れもあり、『学校の美術の先生』というのも抱いていたもので。
そんなことを担任の先生と話していると、
「じゃあ、大学進学しやすい高校に行け」
と言われたのもあり、比較的進学校と言われている高校を受験することに。
んで、試験当日。
うちの中学からその高校を受験するの僕しかいなかったのもあり、そしてなにより僕が試験会場に行かない可能性もあり笑、その当時の教頭先生自ら、車で送ってくれました。(連行されました)
試験も終わり、下校すると、、、なにやら、知らない男の人たちがうちの前で立っていました。
男の人「〇〇さんの息子さん?」
と声をかけられ、「そうですけど、、」と僕。
男の人「お父さんの居場所知らない?」
と闇雲に、、
(オヤジ、、なんかやらかしたな、、)
すぐに思い至りました。
そうです。僕の親父は蒸発しました。
まぁ、兆候はありました。
僕が中2の時くらいには、帰ってくるのは一週間に2回程度。
そもそも、小さい頃から暴力を振るわれお酒が入ると特に酷い仕打ちを受けて来たのもあり、いない方がいいって本当に思っていました。
んでも、よりによって試験当日かいっ!って思いましたが。
そんなこんなで、てんやわんやです。
高校、受かったけど、、、、
僕を通わせるお金がない、、、
あの時の母の顔は忘れられません。
で、入学説明会。確か3月17日だったかな?
説明会が終わった後、高校の先生に母と相談しに行きました。
事情を話すと、その先生、目に涙をためて
『俺がお父さんだと思え!』
って、言ってくださいました。
のちの担任となってくれた方です。たがや先生、忘れてませんよ。
ということで、僕は奨学金を借り、無事、高校へ入学。
ただし、その先に進学することはさすがに難しかった。
早朝4時から仕事に出て、夜も1時過ぎに帰ってくる。3つも仕事をかけ持つ母にこれ以上負担をかける勇気は僕にはありませんでした。
そりゃあ、一時期はふてくされました。
あんだけ、勉強しろ!大学行け!って言ってたのに、
進学校を勧めといて進学できないって、、
母を責めたりもしました。
今思えば、僕の人生なのにね。悪いことは全部人のせいにして。
でも、高校生の僕はすごく楽観的にそれはそれは同級生たちと、高校生らしい悩みや楽しみを謳歌していました。
そして高校3年。卒業シーズン。
(ショートドレッドにヒゲが僕です爆。老けてます)
まだ、芸術関係にこだわっていた僕は、そうだ!趣味でやりゃーいいんだ!的に、
彫刻や絵画をできる時間をなるべく多く持てる=休みが多い職業、
そして母を安心させる仕事=安定の公務員。
という浅はかな考えのもと、『消防士』の試験を受けました。
一次試験の体力と学科はパスしたものの、二次試験の面接であえなく不合格。
高校生の中で二次試験に進んだ人は僕を入れて2名しかいなかったので、受かる気満々だった僕はさすがに塞ぎこみました。
『なんでうまく行かないんだろ、、』
『俺の人生どうなっちゃうんだろ、、』
そんなことを思いながら、家庭研修期間を迎え、、、
まぁ、一種の自暴自棄タイムですね。
それを見かねた?のか兄が、僕にかけた言葉。
『美容師やればいいじゃん。』
天啓かと思いました。
何故なら、あの親父が絶対になるな!と言っていた職業が『美容師』だったのです。
ものすごく父を恨んでいた僕はそんなことから、美容師になることに照準を絞りました。
(めちゃくちゃな動機です笑)
当時、インターネットもそこまで普及していなかったのもあり、
とりあえず、1年間闇雲にバイトして専門学校の資金を貯めるぞ!と決め、先生たちの進学の勧めも振り切り、学年の中で唯一のフリーターへ。(めちゃ3年次の担任には怒られました)
卒業後、カラオケボックスのバイトやプールの監視員などをやりつつ、せっせこ資金を貯めつつ奨学金を返済していく日々。
正直、めちゃくちゃ怖かった。
本当にこれで合ってるの?
先生の言う通りにしとけばよかったんじゃないの?
なんて、思いが立ち込めないように、バイトのないときは土手に行って、絵を描いたり、読書をしたりして、時間に隙間ができないように。考える時間を自分に与えないように。そうやって過ごしていました。
そんなある日。転機が、、
フリーターになって4ヶ月が過ぎた頃、どうしても辮髪(ベンパツ)にしたくなって、
これね。
エクステがつけられる美容院を探すべく片っ端から電話をかけていました。
数十件かけた頃、ある美容院が、『やってますよ』と。
その当時、エクステがつけられるサロンはほとんどなくて、すがるようにそのサロンに。
『いらっしゃいませぇえい!』
と威勢のいい掛け声で迎えられ、やりたい髪型の詳細を話すと、、
爆笑されながら、
『なんでもつけてやるから、つけたいモノを買ってきな』
と、、。
え?美容室ってこう言うものなの?
エクステって自分で買ってくるの?
と、疑問を抱きながらも、そのまま、流行発信基地アズ熊谷へ。
エクステを無事購入し、サロンに戻りいざ実装。
終始笑われながらの施術タイムでした。
(なんて自由な美容室なんだ、、、驚)
そんなこと思っていたら、奥から口ひげの生えたおじさんが出てきて、
『面白い髪型やってんなぁ。仕事何やってるの?』
と。
ありのままの事情を話し、専門に行くためにバイトしているんですと答えると、
『なんだ、じゃあうちに来いよ。』
へ?え?い、、いや、ちょっ、、
そうです。そのおじさんこそが、電髪倶楽部創業者、オーナーだったんです。
とりあえず、改めて、面接しようと言われるがまま、後日面接へ。
詳しい事情を話すと、
『家庭の事情も考えると働きながら通えばいいんだよ。専門は。』
と言われ、へ?そんなこと可能なんですか?
と思いもよらない方法を教えてもらいました。
入社、そして通信学生へ
3年続けていたプールの監視員のバイトの期間を終え、
1997年、9月2日(当時1日が定休日だったため)
無事?美容のことを何も知らないまま入社。
できて間もない、2号店、駅前のストリート店に配属されました。
そこから、通信教育の課題と、日々のサロンワークをこなしつつ、修行の毎日。
親の援助なしでやってやる!
大学行った奴がうらやむほど活躍してやる!
何より親父を見返してやる!
という不純な動機で始まった僕の美容人生。
本当にノロマだったので、失敗ばかり。成長おそい。
何より美容のこと、全然わかんない。
それでも、先輩や、先輩の友達、
そして、大事な大事なお客様の方々に支えられ、
無事、専門を卒業。
そして美容免許を取得。その後にスタイリストに昇格しました。
そして明日で21年目に突入というわけです。
多くいる美容師の方々のように、小さい頃からの夢だったわけでもなく、ただ生きるために選択したこの職業。
今ではこの職業をできることに、誇りを持っています。
だから、もし、ね。
もし、僕と同じような境遇で、美容師を諦めちゃう子。
そんな高校生がいたら、全力で応援したいんです。
僕は運が良かったから、どうにか美容師になれたけど、
当時の僕なんかよりも、もっと純粋に美容が好きなのに、環境のせいで夢を諦めざる得ないって思っている人がいたら、力になりたいって思う。
電髪倶楽部では、そういう、働きながら専門に通うっていう道筋もあります。
通信学生も喜んで採用します。
だから、あなたのその夢。諦めないでくださいね。
自分の人生は自分で切り開くしかないのよ。
すべての責任は今の自分の選択にある。
だから、家庭のせいや、人のせいにするのやめて、本気で自分と向き合ってみてね。
もし、周りにそういう事情の子がいたら、教えてあげてください。
ま、さすがにたくさんの採用はできませんが、相談には必ず乗ります。
そうじゃないと、あの日の僕に叱られますから。
というわけで、長文失礼しました。
21年目もあの日の気持ちを忘れずに精進していきたいと思います。
YSO

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